第235回例会 「夢懐疑」は「夢世界参入時点特定不可能性」によって論駁されうるか
【発表者より】
この論考は実氏(哲学道場 第231回例会 発表者)が提出した『夢世界に参入する瞬間の存在と非存在』を発展させるための試論であり、ここで私は「私は今、じつは夢を見ているのではないか」という「夢懐疑」を論駁することを試みる。
ばぶ太郎
個人的に231回の発表に特別な興味、夢の間だけ現実世界の私を欺くような私を立てること、があったため非常に楽しめた。
本発表の議論で徐々に明かされていったのは、夢世界の私{私}と夢はそもそもとして現実に対して特権があるとは言い難いということ。夢の理不尽さは現実と対応していないことや、夢同様、現実の記憶も、後から過去を振り返る形で構築される点では一緒だということだ。
私はむしろ、早送りの夢の例で誤謬とされた夢の偽記憶性、いわば嘘現実性の擁護(夢なんかよっぽど、ああ夢だな。と分かるという方もおられはしたが)、夢懐疑への論ぱくではなく、夢信者への肩入れとして、論を広げられないか興味が沸いた。端的にはデカルト的な視点、「夢あり」とでも言えようか。この点で発言などできず惜しいことをしたが、発表後半の夢懐疑に関する様々な変容にも興味深い点がたくさんあり、おって考察していきたい。
深草「夢見状態への〝参入〟の意味は結局わからずじまいであった。私の理解力では『世界5分前創造仮説』のように現在という特異点から事後的に過去は構成されるが、それの構成はされていようといまいとわからない(構成されていると仮定しても経過した事実があったと仮定しても意味に差が無い)という問題に収斂するものであり、夢ならではの論点が存在するとしても言語化に到達できていないと思った。体験的な事実に過ぎないが、現実と比較したときに夢において内包と外延とが分離しやすいという傾向性が確認できたことは満足であった」
今まで参加した哲学道場の中で一番関心がある発表だった。
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